2024年の漢字は「金」、新語・流行語大賞は「ふてほど」。
元旦に最大震度7の能登半島地震が発生し大きな被害が出た。更に9月には豪雨に見舞われ能登半島は二重被災となってしまった。
7月から9月にかけて開催されたパリオリンピックとパラリンピックで日本人アスリートが多くの「金」メダルを獲得した他、大谷翔平選手が3度目のMVPを獲得するなど値千「金」の活躍だった。政治の世界では裏「金」問題が提起され、衆議院選挙で自民党は大敗した。また、「金」目当ての闇バイト強盗事件が多発した年でもあった。
浪花のモーツァルトことキダ・タローさんが5月に、俳優、歌手で活躍された西田敏行さんが11月に亡くなった。
恋はメレンゲ/大瀧詠一
作詞:大瀧詠一/作曲:大瀧詠一/編曲:多羅尾伴内
1月18日、サクソフォニストの稲垣次郎さんが死去。90歳だった。
「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」などを経て、1962年に「稲垣次郎クインテット」、69年にジャズ・ロックのグループ「稲垣次郎とソウル・メディア」を結成。70年代以降はピンク・レディー、西城秀樹、沢田研二、大滝詠一といったアーティストのライブやレコーディングで演奏、更にスティーヴィー・ワンダーやスタイリスティックス、テンプテーションズ、フランク・シナトラ、シャーデーの来日公演にも参加するなど幅広く活躍した。
1975年5月リリース大瀧詠一の2nd.アルバム「NIAGARA MOON」でもTennerSaxでクレジットされている。
もう一杯のウヰスキイ/チューリップ
作詞:吉田彰/作曲:吉田彰/編曲:チューリップ
2月16日、元チューリップのベーシスト・吉田彰さんが死去。75歳だった。
高校時代に財津和夫と同級生だった彼は、1970年にチューリップを結成し72年6月にメジャー・デビューを果たす。80年にバンドを脱退し音楽界を引退。港区乃木坂によしだ屋珈琲店を開店、2011年からはWEBよしだ屋珈琲店として営業を続けコーヒー豆の通販を行うなどしていた。
「もう一杯のウヰスキイ」は1976年9月リリースの7thアルバム「MELODY」に収録されている。
つぎの夜へ/ゆらゆら帝国
作詞:坂本慎太郎/作曲:坂本慎太郎、亀川千代、柴田一郎/編曲:ゆらゆら帝国
4月7日、元ゆらゆら帝国のベーシスト・亀川千代さんが死去。54歳だった。
1998年、ゆらゆら帝国のメンバーとしてメジャーデビュー。前髪を真っ直ぐに切り揃えた腰まであるロングヘアでの立ち姿はエキセントリックだったが、うねりと動きのあるベース・ラインもまた特徴的だった。2010年3月末にゆらゆら帝国は解散したが、その後も解散前から参加していたバンドを含め複数のバンドで活動を続けていた。
「つぎの夜へ」は 2006年6月リリース、ゆらゆら帝国の6thシングル。
偽りのDJ /ダディ竹千代&東京おとぼけCATS
作詞:加治木剛/作曲:山下達郎
5月9日、ミュージシャン、音楽プロデューサーのダディ竹千代(本名・加治木剛)さんが死去。71歳だった。
1976年、「ダディ竹千代&東京おとぼけCATS」を結成。メンバーの入れ替わりの激しいバンドだったが、ライブではゲスト大会という名物コーナーで海外の著名アーティストの音態・形態模写で笑いを誘うコミック路線が大ウケだった。バンドは1981年12月に解散したが、作詞、作曲、プロデュース、芸能事務所経営、ライブハウス経営など音楽業界での活動を続けた。
「偽りのDJ」は 1980年リリース、ダディ竹千代&東京おとぼけCATSの3rdシングル。
マカオ夜曲/憂歌団
作詞:山上路夫/作曲:花岡献治/編曲:憂歌団
6月17日、元憂歌団のベーシスト・花岡献治さんが死去。70歳だった。
1974年、憂歌団に加入。翌75年10月、SHOW BOATレーベルから「おそうじオバチャン」でデビュー。不動の4人組ブルース・バンドだったが98年に冬眠を宣言。その後、花岡はライブツアーで訪れた熊本で体調を崩し緊急入院、療養中に熊本地震に被災しそのまま熊本市の郊外で生活をするようになっていた。
「マカオ夜曲」は1995年10月リリースの13thアルバム「ブルース・バウンド」に収録されている。
夜は静か通り静か/はちみつぱい
作詞:渡辺勝/作曲:渡辺勝
6月30日、マルチ・プレイヤーのミュージシャン・渡辺勝さんが死去。73歳だった。
はちみつぱいで活動した他、岡林信康の2ndアルバム『見る前に跳べ』をはじめ、あがた森魚、高田渡、なぎら健壱らの作品にプレイヤー、アレンジャー、作曲家など様々な形で参加。おまつとまさる氏やラポン・シュポンのメンバーとしても活動していた。
「夜は静か通り静か」は1973年10月リリース、はちみつぱいの唯一のスタジオ・アルバム『センチメンタル通り』に収録されている。
ちょ/B-DASH
作詞:GONGON/作曲:GONGON/編曲:B-DASH
7月5日、元B-DASHのVo.&Gt.GONGON(本名・菅原勇太)さんが死去。46歳だった。
B-DASHは、1997年に結成、2002年にメジャーデビュー。日本語でも英語でもない意味不明な歌詞「適当アドリブめちゃくちゃ語」をのせたポップパンクが最大の特徴だった。シングル8枚、アルバム13枚を発表し、国内外の多数のフェスにも出演する活躍を見せたが、2017年2月に解散を発表した。
「ちょ」は 2002年6月リリース、B-DASHのメジャーデビューシングル。
Loud Minority/United Future Organization
作詞:松浦俊夫、RAPHAEL SEBBAG、矢部直/作曲:松浦俊夫、RAPHAEL SEBBAG、矢部直
7月25日、DJ、プロデューサーの矢部直さんが死去。59歳だった。
1990年、矢部直、RAPHAEL SEBBAG、松浦俊夫の3人でクラブ・ジャズ系のDJユニットUFO(United Future Organization)を結成。91年、デビューシングル「I Love My Baby(My Baby Loves Jazz)」がロンドンのクラブ・シーンで話題となり、翌年の2ndシングル「Loud Minority」は英国の音楽誌のジャズ・チャートで第1位を記録。東京のクラブではイベント「JAZZIN’」をスタートさせシーンを牽引してきた。
「Loud Minority」は1992年リリースの1stアルバム「Jazzin’」に収録されている。
受験生ブルース/高石ともや
作詞:中川五郎/作曲:高石ともや/編曲:近藤進
8月17日、フォークシンガー・高石ともやさんが死去。82歳だった。
1966年9月、大阪労音フォークコンサートに初出演、12月にデビュー。各地の労働組合や大学、反戦集会などで歌うことでメッセージ・フォークを広め、68年に「受験生ブルース」がヒット。「関西フォークの旗手」とも呼ばれ日本中に知られるようになった。70年、単身渡米し各地をまわり原点のフォークソングを体験。帰国後はザ・ナターシャー・セブンを結成して、民謡、カントリー、ブルーグラスなどに力を入れるようになる。73年から永六輔らと始めた京都・円山公園音楽堂での「宵々山コンサート」は30回目の2011年まで続いた。
「受験生ブルース」は 1968年2月リリース、高石ともやの3rdシングル。
RYDEEN/YMO(Yellow Magic Orchestra)
作曲:高橋ユキヒロ/編曲:Yellow Magic Orchestra
9月8日、音楽プロデューサーの川添象郎さんが死去。72歳だった。
1969年、ミュージカル「ヘアー」来日公演プロデュース。1977年、村井邦彦とともにアルファレコードを設立。プロデュースしたアーティストは、荒井由実、YMO、ハイファイセット、ガロ、小坂忠、吉田美奈子、ブレッド&バター、サーカス、雪村いづみ、いしだあゆみ、伊東ゆかり、CASIOPEA、深町純、日野皓正、佐藤博、SoulJa、青山テルマなど多数。日本人アーティストの海外進出に尽力しYMOの世界公演を実現させた。
父・浩史氏は各界の著名人、文化人が集った飯倉片町の老舗イタリアン「キャンティ」の創業者。
「RYDEEN」は1980年6月リリース、YMOの2ndシングル。
世界中の誰よりきっと/中山美穂 & WANDS
作詞:上杉昇、中山美穂/作曲:織田哲郎/編曲:葉山たけし
12月6日、歌手、俳優の中山美穂さんが死去。54歳だった。
1985年、ドラマ「毎度おさわがせします」で俳優デビュー、シングル『「C」』で歌手デビューした。同年、日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞。その後、日本レコード大賞、ゴールドディスク大賞などの各賞を受賞。NHK紅白歌合戦には、88年より7年連続で出場している。
1995年、映画「Love Letter」でブルーリボン賞主演女優賞を、97年、映画「東京日和」で日本アカデミー賞優秀主演女優賞を受賞している。
「世界中の誰よりきっと」は 1992年10月リリース、中山美穂の25thシングル。WANDSとのコラボレーション・シングル。
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